マイサンはついに他人が絵として認識できるモノを書き記すことに成功した。新幹線。画面中央に横たわる、うんこのようなものの両側に窓らしきモノが書かれているものがそうだ。
完成後、興奮のあまりグルグルをかきまくったとのこと。それふくめて天才だ。
墓標
ともあれば虚無に吸い込まれそうになり、んでもってリアルを失いがちな学生モラトリアム期間が人よりほんの少し長い俺は、
最大限の自由=「存在しない」とか実感して、というより等身大の経験として刻まれておるのだが、
ようは「ある」と「ない」がどっちがさきか、どっちがえらいと思いたいのかで生きておった。
で、豊人が生まれ、確信したことがひとつ。
「ある」の方がえらい。
感じたきっかけは、 豊人の「みかん、ない!」
みかんがたべたいが、この家にはないことを知っているが上での発言。
ようは存在するからこそ、「ない」を発明できたわけだ。インド人が「0」つくったのと同じサイクルが、実存ちゅーレベルでまた繰り返されているわけだ。
ちなみに、みかんを御所望のときは、「みかんぷー」
多分ないけど、食いたいので一応いってみるときは「みかん、ぷー?」(語尾がすこし上がる)
で、まあこうして平和だ。
二号機の進捗確認に同行するため山科にむかう。
久しぶりのまこと助産院、エコーマシーンが導入され、状況把握が楽しくできた。
頭のあるあたりをツンツンしてみると、カクカク動くのが面白い。結構大きくなっており、そろそろ腹もせりだす時期だとのこと。
診察する初号機の図
んで山科駅前で弁当を喰らい、墨染の実家にむかう。
実家近くにはちびっこ広場という空き地に産業廃棄物遊具が設置されたプチ公園があり、そこでタローとその美人母と子育て談義に華を咲かせる嫁をしり目に、そのまた近所の藤森神社に参拝。このお宮、勝負事、つまりギャンブルの神さんとのことで、休憩所には競争馬の寄贈品がところせましと。
小学生が一人で参拝しており、馬券かまたは受験の祈願か。
その後、父上とともにお食事にいき、
そして泊めてもらった。義理の親父と、二人っきりの初めての夜。